反復の振る舞いは歩行を足掛かりとする。 投影される僧侶は約10分程坐禅を行う。その後、スロープを特異点として周りをぐるぐると歩く経行を行う。何周か歩き終えると元の位置に戻り坐禅を始める。これらのサイクルの中、実体として出現するスロープ上に僧侶の足裏を映す。 工夫点としての僧侶の歩行とカオス点としての我々の歩行の関係性について部分的に接触を試みる。我々の足裏と僧侶の足裏の接触には、まだ見ぬ広いフィールドとしての歩行があるのかもしれない。
それらの紐解き結び
宗教から逸脱した要素が拡大するのではないか。それにはロゴスをハックしたレンマ的な要素が浮き出てくるのではと。私は信仰をするしないのどちらにも属さない狭間に位置する。そうしたことを考える中、普遍な要素と敬意な要素の接触を通してそれらの間に現れる狭間を新普遍のクロスポイントとして目の前の一事物として切り出すことを試みる。 偏りの存在しない秩序を出発点とし、作者自身の生まれてから一変して変化せずに行う行為を見つめ直す。例として癖に近い無意識化でのパターン、一点から一点へとA点からB点へと行き来する反復行動が挙げられる。この反復行動で行われる歩行は空間の認識や、俗世的な思考は排除され、無意識での思考、思考での無意識状態となる。これらをセントロイドとし、禅の経行と紐解く。 歩行を経行として捉えた時、座禅の作法の間に挟まる解しに近い工夫点として見られる。一方、一般の人々が行う歩行は意識的であったり、無意識に誘発されてなど特定が困難であるカオス点として見られるだろう。この双方の接触(足裏と足裏の交わり)を新普遍のクロスポイントとして位置付ける。それらを踏まえて反復行動から経行へ、経行からより広い人々の歩行へと意識レベルにて結びゆく。 私は経行(工夫点)と歩行(カオス点)のすり合わせを狭間見ることで自身の反復行動を改めて見つめ直すことになるのかもしれない。